『24人の哲学者の書』の最初に出てくる神の定義は次のようなものです。
Deus est monas monadem gignens, in se unum reflectens ardorem.
(神はモナスを生み出すモナスであり、自らに対してたった一つの〔or 自身の〕熱を反射させている。)
モナスってなんて訳せばいいのですかね…。
二番目の定義は上でも紹介した
神は、その中心が至るところにあり、その外周がどこにもない無限の球体である。
というやつになります。
この二つは最初かなりへんてこな定義に見えたんです。だからこんな定義を肯定的に引いてるようなやつは、ヘルメス文書にどっぷり浸かっているに違いないと思ったわけです。
でも実態はそうではないようです。というか中世におけるヘルメス文書の位置づけというものを相当程度誤解しているというか。ヘルメス文書といえばルネサンスからという変な思い込みが頭にあったからだと思います。
まあ詳しいことは分からないのですが、この二つの定義はかなり後半に引かれていたようです。アラヌスについては伊藤氏が著作で触れていました。
また Alexander Neckam (1157-1217) が「ヘルメス・トリスメギストスがこう言っている」といって上記定義を引用しています。
そのあとも Alexander of Hales (c. 1175-1245)、William of Auxerre (c. 1150-1231), アルベルトゥス・マグヌス(1193/1206-1280)といった大物がこの二つの定義を引用しているとのこと。
で、有名なトマス・アクィナス(1225-1274)はぞれぞれの定義について次のように書いています。まず第一番目の定義。
Quod vero Trismegistus dixit "Monas monadem genuit et in se suum reflexit ardorem" non est referendum ad generationem filii vel processionem spiritus sancti, sed ad productionem mundi: nam unus deus produxit unum mundum propter sui ipsius amorem.
(トリスメギストゥスは次のように述べている。「モナスはモナスを生んだ。そして自分に対して自らの熱を反射させている」。このことは子の誕生や聖霊の発出について言及したものではない。そうではなくて世界の産出について言及したものである。というのも一つである神は一つの世界を、自分自身に対する愛のために生み出したのだから。)
二番目の定義について。
Trismegistus dixit "Deus est sphaera intelligibilis cuius centrum est ubique, circumferentia vero nusquam" per centrum intelligens creaturam ut Alanus exponit.
(トリスメギストゥスは次のように述べた。「神は中心が至るところにあり、しかし周辺はどこにもない知性的な球である」。アラヌスが書いているように、彼は中心という言葉で被造物を意味していた。)
どういうわけか『24人の哲学者の書』では無限の球といわれていたものが、ここでは知性的な球になっています。私が確認した限りでは知性的な球という表現は同書にはない。異読にもなし。どうもトマスの頭の中でアラヌスの記述と元の文章がごちゃごちゃになっているようです。しかも中心は創造者ではなくて被造物(creatura)を意味するというのもおかしな感じです。よくわかりません。
こういう背景を理解しておくと、先日引用したジョルジョ()の文章の文化的な意味も理解できてきます。いや、いきなり16世紀に飛ぶなよって話ですけど。もう一度引用。
この三位一体についてもヘルメス〔・トリスメギストス〕は球の謎にしたがって教えている。彼は次のように言う。神は球である。その中心はすなわち父であり、その力能によってあらゆる場所にいる。
一方、〔球の〕境界はいまや知恵であり、神の息子であり、それはどこにもいない。というのもそれをとらえることは不可能であり、かつそれはすべてのものを包摂しているからである。
このことについては先に引いたのと同じく「シラ書」で次のように述べられているとおりである。「〔知恵のセリフ〕私はたった一人で天空を巡り歩き、深遠の深みに達した(24章5節)」。
一方、両者、すなわち中心と教会の両者の間のお互いの関係は聖霊と相互の愛を明らかにしている。
トマスの場合と同じように、ここでもヘルメスのものとされている言葉は、そのままの形では『24人の哲学者の書』には現れません。そもそも三位一体(trinitas)という言葉自体が同書では使われていませんし。
でもジョルジョが上記引用箇所を執筆したときに『24人の哲学者の書』が念頭においていたのは間違いないと思います。
またまた時代が飛んで17世紀のガッサンディ(1590-1655)も同じことを述べています。
Dictum celebre Trismegisti est, monas genuit monadem, et suum in se reflexit ardorem; idque tum nonnulli de sanctissimo trinitatis mysterio accipiunt.
(トリスメギストゥスの名高い言葉とは以下のようなものである。すなわちモナスはモナスを生んだ。そして自分に対して自らの熱を反射させている。少なくない数の人がこの言葉を極めて神聖なる三位一体の神秘についてのものと受け止めている。)Tum D. Thomas censet potius ita esse interpretandum, ut intelligatur deus, qui est unus, mundum, qui etiam unus est ob sui amorem conduisse.
(一方、トマス博士はむしろ次のように解釈されるべきだと主張している。すなわち一人である神が、これまた一つである世界を自分への愛のために創造したと理解されるべきだと。)
ここから上で引用したトマスの文言をガッサンディが知っていたことがわかります。
ただトマスとは違う意見もあるということを書いているので、彼はきっと他にも知っていたはず。それがジョルジのような人なのか、それとも中世のスコラ学者なのかはわかりません。
直感的にはスコラ学者を意識している気がします。ただ、友人のメルセンヌがジョルジに対する反論書を書いているらしいので、たぶんガッサンディもジョルジは知っていたはず。
ええっと、特に何のまとまりもないですけど、とりあえず『24人の哲学者の書』については調べると面白そうだということで。←結論