セネカのプラトン主義 - 「非物質的な」の解釈をめぐって

Middle Platonism and Neoplatonism: The Latin Tradition (PUBLICATIONS IN MEDIEVAL STUDIES)

Middle Platonism and Neoplatonism: The Latin Tradition (PUBLICATIONS IN MEDIEVAL STUDIES)

 この本に収録されているセネカの章(155-195頁)を読みました。自然学の問題を扱ったセネカの議論を拾って、テーマ別に検討しています。叙述にまとまりこそないものの、今後の議論の出発点を提供してくれる優れた研究です。

 興味深かったのが「非物質的な」という言葉についての著者の議論です(170-174頁)。セネカはある著作の中で神のことを「非物質的な理性」と呼んでいます(『ヘルウィアに寄せる慰めの書』第8章第3節)*1。通常のストア主義の見解によれば神は物質なので、「非物質的な理性」として神をとらえるセネカストア派の通説から外れていることになります。

 このことを根拠の一つとして、シュタールという研究者はセネカストア派の一元論をプラトン主義的な二元論へと変えていったのではないかという説を提出したそうです(未見)*2

 このような研究史を背景にして、著者はまず「非物質的な」という言葉の使用法を検討します。一つは通常のストア派の説。つまり時間や空間が非物質的であり、神は物質であるという説です。もう一つはプラトン主義。つまり神やイデアが非物質的であるという説です。

 興味深いのはこれら二つの用法に加えて、第三の用法が加えられている点です。そしてこの第三の用法こそがセネカが神を「非物質的な理性」と呼んだときに念頭に置かれていたものだと著者は主張します。

 このような解釈の出発点はディオゲネス・ラエルティオスの手になる次のような文章です。

 彼ら〔ストア派〕は、始原と構成要素とは異なると主張する。始原は不生不滅であるが、構成要素のほうは、宇宙の大燃焼の時に滅びるのだからと言って。さらに、始原が非物質的で形のないものであるのに対して、構成要素は形作られてあるものだとも主張する。(SVF, 2.299)

 ストア派にとって始原とは神と質料のことです。したがってここでは神が非物質的とされていることになります。

 始原(すなわち神)の非物質性を後押しする証拠として著者は、神と質料の双方が永遠であると言われていることに注目します。

 したがって、質料を動かしそれを秩序だった仕方でさまざまな生成変化に導く力は永遠的なものである。それゆえ、その力は神であることになる。(SVF, 2.311、水落健治、山口義久訳)

 実体とは存在するすべてのものの第一質料のことであり、全体として永遠であってより多くなることもより少なくなることもない。(SVF, 1.87、中川純男訳)

 このように始原を永遠のものと考えるストア派の解釈が、学説史家たち(あるいは学説史家たちが利用した資料)の段階で、神やイデアを永遠のものとみなすプラトン派の学説と混交した結果、神を非物質的とみなす見解がストア派に現れたのではないか。このように著者は推測します。そのためセネカによるストア主義のプラトン主義化というシュタールの見解には修正が加えられることになります。

 最初これを読んだときは、なるほど、そういうこともあるかな、と思ったのです。しかし議論の出発点であるディオゲネス・ラエルティオスの文章を『初期ストア派断片集』の邦訳で見て考えが変わりました。そこでは同じ箇所が次のように訳されています。

 さらに始原が物体で形のないものであるのに対して、構成要素は形作られてあるものだとも主張する。(水落健治、山口義久訳)

 先ほどの引用では「非物質的」と訳されていた箇所が「物体で」となっています。実は「非物質的な」というのは編者による修正であり、写本には「物体で」と書かれています。

 「非物質的な」という修正を加えた編者は後ろにある「形のない」という語句との整合性を持たせようとしたのだと思います。しかし次のような文章は神が物体であることと形を持たないことがストア派の哲学にとっては両立する主張であったことを示しています。

 ストア派の人々は神の本質を次のように定義している。すなわち、神とは形はもたないが、自らが望むものへと変化し、あらゆるものに似たものとなる、知的で火の性質をもつ気息である。(擬プルタルコス、『哲学者たちの自然学説誌』第1巻第6章、三浦要訳)

 したがって、ディオゲネス・ラエルティオスの文章は写本どおり「物体で」と読むのが正しいことになります。ヘレニズム哲学の基本資料を集めたロングとセドリーも「物体で」と読んでいるそうです。

 ディオゲネス・ラエルティオスの文章で「非物質的な」という読みがしりぞけられるとなると、著者が示した推論は成り立たなくなります。

 結局のところ「非物質的な」という言葉の解釈として著者が提示した第三の用法というものは存在しないことになります。神を「非物質的な理性」と呼ぶセネカの用法は、素直にプラトン主義的なものと考えるべきです。そして別の箇所で著者が示しているように、この用法はウァッローに由来し、さらにウァッローからアンティオコスへと遡って理解されるべきものだということになります。

 長々と書いてきましたけど、要は著者が注の58、59で述べていることはおかしいということが言いたかっただけです。

*1:その創造者が万物を支配する神であるにせよ、巨大な構造物の製作者たる非物質的な理性であるにせよ(後略)。(大西英文訳)

*2:G. Stahl, "Die Naturales quaestiones Senecas. Ein Beitrag zum Spiritualizierungsprozess der römischen Stoa", Hermes 92 (1964): 425-54.