中世における可能知性単一説批判

 『ミクロコスモス』の論考準備の一環として、トマス・アクィナスによる可能知性単一説反駁を扱った論文を読みました。

 アヴェロエスの知性単一論がラテン中世で批判の的となったとはよく言われるものの、そのときに批判の的が能動知性の単一性論だったのか、はたまた可能知性の単一性論だったののかはしばしば不明瞭なまま語られているように思います。この不明瞭さは今日からはじまったわけではなく、すでにタンピエによる禁令が知性単一性論を禁ずるさいに、それがどちらの知性を非難の対象にしているのか明確にしていません(たぶん両方でしょう)。

 もちろん論者によって能動知性、可能知性の定義がしばしば異なる以上、後世から歴史を総括する場合に「知性」という言葉で複数のものがくくられてしまうのはやむをえません。しかし歴史上の知性論を具体的に追う者は各論者の術語に敏感でなければなりません。

 この点から見ると水田さんの論考は例えば新しい『ケンブリッジ中世哲学史』の知性論の項目(ブラック)でもそれほど触れられていない重要な論点上のシフトに触れていて、私にとって大変助けになるものでした。

言いかえればトマスのいう「多数の能動知性」は、古来の「能動知性」の問題の中ではなく、ラテン・アヴェロイストたちとの論争につながる新たな「可能知性」の問題の中で論じられているのである。

 あ、なるほど。アレクサンドロスが能動知性と呼び(彼にとってはこれは神なんだけど)、テミスティオスが太陽になぞらえた(とアクィナスが考えた)ものを、アクィナスは神にもっていき、その上でその神に照らし出されて働く霊魂中の能動知性と可能知性があると考えた。そしてそれらの霊魂中の知性は各個人で独立であると。

 これでだいぶ頭がクリアーになった気がします。あとこの論考はトマスのティミスティオス解釈についても書かれていて勉強になりました。