ヘレニズム・ローマ期の修練と聴取

 有名なピタゴラス派の沈黙の教えについて論文で触れたので、1-2世紀の哲学教育での「聴取」の重要性を論じたミシェル・フーコーの講義を読みました。

 このフーコーの講義で中心的な位置を占めているのは修練という概念です。この修練には二つの大きな型があるとされます。一つはヘレニズム・ローマ期のもの、もう一つはキリスト教的なものです。キリスト教的修練は告白という営みを通じて実行されます。告白のさいに、告白する人は師にたいして自己の状態を仔細に報告する必要があります。このように自己についての真実を認識することが、自己放棄をもたらし、ついには師への服従をもたらすことになります。

 これにたいしてヘレニズム・ローマ期の修練は異なった意味を持っていました。それは自己についての真実を認識するために行われるのではありません。むしろいつか遭遇するかもしれないさまざまな状態に適切に対処できるように、自己と世界とのあいだにあるべき正しい関係を知り、それにそった行動指針を自家薬籠中のものとすることを意味していました。

 この修練に欠かせないのが師の教えを正しいやり方で聴くことです。このためヘレニズム・ローマ期には聴くことについて一連の議論が形成されることになります。プルタルコスは、聴覚はすべての感覚のなかでもっとも受動的であると同時にもっとも理性との関係が深いものと論じています。音は聞かないでいることはできないし、聞かれた音は何よりも魂を魅惑します(受動性)。同時に人間は聴覚を通してのみ徳を学ぶことができます(ロゴス性)。

 このような聴覚の両義性はセネカエピクテトスによっても論じられています。セネカによれば聴覚は受動的であるために、意識を集中させていない人でも真のロゴスが近くで発せられればそれを取り入れることがあります。しかし同時に真実への注意の向け方に誤りがあれば、たとえ耳にしていても何も学べないということがありえます。エピクテトスによれば、真実のロゴスはそのままの形では伝達されず、常に何らかの言語上の表現をともなって理解されます。そのためときに人は語られたことがらではなく、語られ方の方に注意を向け過ぎてしまうことになります。「[…]聴くことはつねに誤謬にさらされています。それは常に意味の取り違えや注意不足の危険にさらされているのです」。

 そこでエピクテトスは聴くということは難しいことであるとして、そのためには能力や経験(エンペイリア)と熱心な実践(トリベー)が必要であるとします。ここで聴くために技術(テクネー)が必要とされていないことが重要です。技術は認識を前提とするがゆえに、認識の準備段階である聴取においては技術は必要とされません。

 この経験であり実践であるものは実際にはどのようなものなのか。第一には沈黙することです。弟子は黙って師の教えを聴かなければならない。これはピュタゴラス派の学校で大変重視された規則です。プルタルコスも「沈黙には深みというか神秘的なところがある」と述べています。第二に熱心に聴いているということを態度で示さなければなりません。「出席者のほうは、耳をそばだたせ、彼を注視し、不動の態度をとり続け、聴かなくてはならない」(テラペウタイ派の教え、アレクサンドリアフィロンより)。しかし同時に聴くものは自らの理解の状態を態度で示さなければなりません。

頭や視線の徴によって、彼らは理解したことを示す。微笑みや額の軽い動きによって、演説者に賛成だということを示す。頭と右手の人差指の緩やかな動きによって、彼らは当惑していることを示す。(フィロン)

 このような身体にあらわれる態度だけでなく、聴くものは語るものを語るように刺激するような態度を示さなければなりません。「哲学者の話を聴こうと思うなら、『何を言ってくれますか』などと言わないほうがいい。むしろ君自身の聴く能力を示しまたえ」(エピクテトス)。

 また語られていることにしかるべき仕方で注意を向けなければなりません。ウェルギリウスの言葉を聴いたとき、それを文法家のように解釈するのではなく、そこから人の生き方を導いてくれる教則を引き出すようにする必要があります。

 最後にはそのようにして引き出された教則を記憶し、自分のものとする必要があります。「プルタルコスはこの主題を床屋での出来事に比較しています。ひとは床屋を去るときには、きまって鏡の中にこっそりと目をやって、一体自分が何に似ているかを見ます。それと同じように、哲学的な対話や哲学の講義のあとには、自分自身に対するすばやい視線で聴取を締めくくらなくてはなりません」。

 フーコーの見立てでは、キリスト教的な自己と真理の関係とは異なる両者の関係をヘレニズム・ローマ時代の修練は前提としており、その修練の必要不可欠な経験・実践として聴くという活動が規定されていたということになります。