『医学典範』ラテン語訳の問題

 こちらの記事でアヴィセンナの考える形成力(virtus informativa)というのは、受胎後6日か7日後に消滅するとされていたと書きました。これは私が見ていた『医学典範』のラテン語訳に「このあいだ[すなわち受胎から6日、ないしは7日目までのあいだ]形成力は母体から何も[栄養を]得ることなく[体を]形成し、その後形成力は去る」と書かれていたからです。先日紹介したWillamの研究でもこの翻訳に即した解説が行われていました。しかしこれではどうも解釈以上居心地が悪いので、別種のラテン語訳を調べてみました。すると、「その後形成力は去る」の部分が「その後形成力は[母体から栄養を]求める」とされているではありませんか。焦ってアラビストにアラビア語を確認してもらったところ、後者の翻訳が正しいようです。

 というわけで、受胎後6日か7日後に形成力が去るというのは正しくありません。正しい理解はおそらく次ようなものです。男性の精液は(おそらく形成力の作用により)子宮内の月経血を材料に心臓をつくる。その心臓から形成力が流れでて別の臓器を形成する。その一方、精液が子宮内で凝固すると、その精液は栄養摂取的霊魂を持つことになる。その後はこの栄養摂取霊魂が形成されかけの臓器の完成のために機能することになる。更に一定期間後、胎児の質料が一定の気質に達すると、形相付与者から新しい栄養摂取霊魂が与えられ、この霊魂が古い霊魂と置き換わる。

 ここで形成力→栄養摂取霊魂1→栄養摂取霊魂2という流れがあります。このうち最初の2つは基本的に父に由来する栄養摂取力と同一視されていると見て良いと思います。ただ最初の段階のものが霊魂と言われずに力と言われているのは、この時点ではいかなる器官も形成されておらず、その意味でアリストテレスの霊魂の定義を当てはめることができないからでしょう。