ボイルにおける粒子論と機械論 Clericuzio, Elements, Principles and Corpuscles, ch. 4

  • Antonio Clericuzio, Elements, Principles and Corpuscles: A Study of Atomism and Chemistry in the Seventeenth Century (Dordrecht: Kluwer, 2000), 103–48.

 ボイルの粒子論に関して非常に大きな影響力を持っているClericuzioの議論です。1640年代から1650年代にかけて、ボイルはハートリブ・サークルと交流しながら化学の研究を進めていったと考えられています。この時に彼がとりわけ強い影響を受けたのが、ファン・ヘルモントの医化学でした。ファン・ヘルモントと同じくボイルは医学の発展には化学の研究が不可欠と考えていました。またこれもヘルモントと同じく、パラケルススが提唱していたような火による物体の分析は十分ではなく、別種のより強い分解能力を持つ物質の探求が行われなければならないと考えていました。また彼は種子的原理が動植物の生成を行うというヘルモントの思想を粒子論的に再解釈することで受け入れていました。

 この粒子論の起源を探る上で重要になるのが、おそらく1651年から53年頃に執筆されたと考えられる『原子論哲学について』です。この中でボイルは元素をスコラ学の伝統で洗練されたきた自然の最小者(minima naturalia)と同じようにとらえています。すなわちさまざまな元素はそれぞれ独自の性質を有した物体として考えられています(ただしスコラ学のミニマとは異なり、ボイルは元素が形相を有するとは考えていませんでした)。ここからボイルの物質論が、一様な物質の機械的な作用からすべての現象を説明するという厳密な(デカルトスピノザが支持するような)機械論の立場からは、その出発点からすでに外れていたことが見て取れます。同じく1651年ごろに書かれたとされる原稿でもボイルは厳格な原子論がとりわけ水銀の性質の説明(つまり化学的性質の説明)と動物の生成を説明できないとの意見を表明しています。

 その代わりに彼が構想したのは階層構造を想定する物質理論でした。『形相の起源』(1666年)の段階でのボイルの粒子論は、普遍的に一様な粒子が集合して、いわばセカンド・オーダーの諸粒子を形成することを基礎に組み上げられていました。このセカンド・オーダーの粒子がさらに組み合わさってさらにサード・オーダーの粒子を形成します。さらにサードがサードと、ないしはサードがセカンドと・・・といった具合に階層的に粒子が組み合わさってより複雑な物質が形成されていることが、自然現象の説明に重要な意味を持つとされました。

 このようなそれ自体が最も根源的な粒子の集合体であるような諸粒子は、単に形、大きさ、運動といった純粋に機械論的な性質だけではなく、様々な粒子が生み出す組成(texture)という性質を有しているとボイルはみなしました。この組成がそれぞれの粒子に特徴的な性質を与えています。このような組成に由来する性質を持った諸粒子が相互作用をすることで、たとえば色とか冷たさとか色々な化学反応とかが説明されました。その際のボイルの説明には、究極的な原子の形、大きさ、運動は登場しません。彼によれば、「個別の結果と事物の最も一般的な原因とのあいだには非常に多くの従属的原因があるのだから、人間の勤勉と理性を行使するべき大きな領域が残されている」。この従属的原因はしばしば中間的な理論とも呼ばれ、つまるところ組成を有する諸粒子を探求しろとボイルは言っているわけです。

 ここからClericuzioはボイルの実際の化学的理論というものは、物理的な機械論に従属するのではなく、そこから独立した領域を確保していたのだと結論づけています。