存在の連鎖 その1 Mahoney, "Metaphysical Foundations"

Philosophies of Existence: Ancient and Mediaeval

Philosophies of Existence: Ancient and Mediaeval

  • E. P. Mahoney, "Metaphysical Foundations of the Hierarchy of Being according to Some Late Medieval and Renaissance Philosophers," in Philosophies of Existence Ancient and Medieval, ed. Parviz Morewedge (New York: Fordham University Press, 1982), 165-257.

 すべての存在は上下にのびる階層構造をなしていて、しかもそれぞれの階層が互いに接する連鎖をなしているという考え方がありました。この「存在の連鎖」の頂点には神がおり、最下層には(多くの場合)質料があるとされました。このような考え方が中世からルネサンスにかけていかに展開されたかを調べた長尺の論文です。導入部分を読みました。

 偽ディオニシオスは『神名論』のなかで、プロクロスと同じように神を頂点にする存在の階層構造を措定しました。しかしプロクロスが神から順々に事物が流出するという因果関係の連鎖を認めていたのにたいして、偽ディオニシオスの考える階層構造では神以下の諸階層を占める事物が因果的な役割を果たすのをやめます。むしろすべての事物はそれぞれの度合いにしたがって、その存在、生命、知性の点で神に与っているとされました。この与りの度合いが序列を決定します。そのため神は万物の共通の尺度とされました。同種の思想はアラビア語で書かれラテン語に翻訳された『原因論』(『純粋善について』)でも展開されています。

 アルベルトゥス・マグヌス(ca. 1200–1280)は『神名論注解』のなかで神は純粋な存在であるがゆえに、すべての存在者の尺度であるとしました。神以外の存在者はその存在を神に依存しているという点で純粋な存在ではありません。より神に近い存在はより純粋でより存在しているとされ、離れるとより複合的になり、存在の度合いが落ちるとされました。

 何いってんだという感じですよね。でもとにかくこの種の思考はこのごひたすら繰り返されます。ここには、単純でくっきり形があるものがよくて、複雑で形がはっきりしないものが悪いという古代ギリシア以来の強固な信念がはたらいています。これがアリストテレス哲学の術語で変奏されると、純粋な現実態がよくて、可能態の度合いが高まるにつれて悪くなっていくとなります。存在の成分が充満していていて常にあるもののほうが、存在成分が希薄であったりなかったりするものよりよいということです。

 トマス・アクィナス(1224/25–1274)も単純(純粋)な神は、他のすべての複合的存在者の存在の根拠であり尺度であると考えました。神に近づくほど現実態の度合いが高まり、可能態の度合いが低まります。逆に質料に近づくほど現実態の度合いが低まり可能態の度合いが高まるとされます。もちろん神への近さ遠さというのは字義通りに空間的な意味で理解されてはなりません。神はあらゆる遍在しているのですから。近さ遠さというのは、事物が本性と恩寵の点でいかに神と似ていないかの度合いを指す比喩として理解されるべきとアクィナスは言います。ブラバンのシゲルス(ca. 1240–82/84)はアクィナスの論敵として知られています。しかし彼もまた神が万物の尺度であり、他の存在者は神への与りの度合いにしたがって階層構造をなすと考えていました。

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