中世のエピクロス

The Epicurean Tradition

The Epicurean Tradition

  • Howard Jones, The Epicurean Tradition (London: Routledge, 1989), 117–41.

 中世におけるエピクロス主義を扱った部分を読みました。記述の大半は古代末期から中世にかけても古典研究の推移に割かれています。キリスト教の広まりも西ローマの崩壊も古典文献研究の伝統を途絶えさせはしませんでした。たしかに蛮族の国家は実用性のある学問の吸収につとめたためより文芸的な領域は等閑視される傾向はありました。またキリスト教徒のなかにはアルルのカエサリウスのように異教の文化とキリスト教の文化を融和させることを激しく批判する人物がいました。キリスト教著作家たちによる旺盛な活動は、異教古代の文献なしで基本的教育をほどこせる体制が整いつつあることを意味しました。しかしそれでもなお7世紀までは古典研究の伝統は維持されます。

 これが壊れるのが7世紀のはじめです。以後、古典研究の復興はまずはるか北のブリテン諸島で起こります。この復興はわずか2世代ほどで終焉を迎えるものの、ヨークで生まれのアルクィンがカール大帝に招かれ、彼を中心にして王の宮廷が文化の一大中心地になったことはよく知られています。カロリング朝の詩人たちは自らがキリスト教徒であると同時に古典古代の伝統の復興者であるという自覚を強くいだいていました。以後写本の転写作業は継続的に行われ、12世紀を迎えます。社会が複雑化するにともなって専門家が必要とされるようなった結果、そのための教育機関として大学が整備され、そこでの教育題材として新たにギリシア語やアラビア語から翻訳された哲学・医学文献、とりわけアリストテレスの著作集が用いられるようになりました。

 このような一連の推移の中でエピクロスはほとんど姿を現しません。ただし彼の哲学についての情報を含む諸資料が中世でまったく知られていなかったというと、そうではありません。ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』の写本がナポリとパリにあります。1335年頃にはウォルター・バーリーが同著作を参照しています。ルクレティウスの『事物の本性について』も写本が2つ存在し、その詩句がいくつかの抜粋集に収録されています。キケロの『神々の本性について』と『善と悪の究極について』も広く流通していました。しかしこれらが転写されていたのは、必ずしもエピクロス哲学への関心があったことを意味しません。それらは単に貸し出しのために写されたのかもしれません。またディオゲネスの著作はエピクロス以外の部分に関心がもたれて写されたのかもしれません。ルクレティウスはその詩人としての側面が評価されていたのかもしれません。キケロが中世でうけていた高い評価に鑑みれば彼の哲学作品が転写されたことはエピクロスとは独立に説明可能です。

 実際中世におけるエピクロスへの言及を見ると、上記の資料への直接アクセスから引かれているものは少ないことがわかります。多いのは文法家の著作でのルクレティウスへの抜粋か、セヴィリャのイシドルスのような百科全書的著作の紹介に依拠したものになります。この百科全書的な伝統においては、エピクロスの哲学学説は他の数多くの学説と並んで紹介されるだけで、それへの批判的評価がなされることはありませんでした。上記で紹介したような本格的な論考に向かうことから人を遠ざけた効果を抜粋や百科全書的著作での紹介は持ったといえます。

 中世にはもう一人のエピクロスがいます。それはいわゆる快楽主義者のエピキュリアンというとらえかたでした。古代文化についての深い学識をもっていたソールズベリーのジョンですら、「世界はエピキュリアンに満ちている。莫大な数の人々のなかで色欲の奴隷でないものはわずかだからだ」と述べて、エピクロスの快楽主義を一面的に理解していることを示しています。これが中世のエピクロス理解の典型でした。