イングランドのエピクロス

The Epicurean Tradition

The Epicurean Tradition

  • Howard Jones, The Epicurean Tradition (London: Routledge, 1989), 186–213.

 イングランドでのエピクロス哲学受容を扱った終章です。16世紀の終わりごろまでのイングランドでのエピクロスといえば、放縦な性生活をおくる無神論者という中世以来の紋切り型の理解が大半でした。エピクロスの原子論への強い関心は、ヘンリー・パーシーを中心とするノーサンバランドサークルで見られるようになります。たとえばトマス・ハリオットは彼の自然哲学の土台に原子論をすえました。しかしこのサークルがその後のエピクロス哲学の広まりを促進することはありませんでした。サークルのメンバーたちはほとんど書いたものを出版しなかったのです。またハリオットはスキャンダルの渦中にあったウォルター・ローリーと親交があったため、「ローリーの教師」である「エピクロス主義者の魔術師」「無神論者」だと非難されました。こうしてエピクロス主義への不信感が強化されました。

 フランシス・ベーコンは初期の著作では原子論を高く評価していました。彼によれば無神論として批判されてきた原子論こそが宗教の存在を証明してくれています。というのも、四元素と第五元素からなる世界が神を必要としない度合いに比べれば無限の数の原子が秩序を生み出すために神が要請される度合いというのははるかに高いからです。原子論では秩序が説明できないという伝統的批判を逆手にとった議論です。しかし後年のベーコンは原子論は利益をうまず、またそこで前提とされている真空と物質の不変性の学説は誤りだと考えるようになりました。

 1640年頃にはルクレティウス『事物の本性について』の最初の英語訳がルーシー・ハチンソンによって作成されています。しかしこの翻訳は出版されず、後年のハチンソンは「このような無益な哲学で楽しんだ罪」を感じるようになりました。

 ハチンソンがルクレティウスを翻訳しているころ、パリに亡命していたウィリアム・キャヴェンディッシュとそのサークルの面々は、当地でデカルトガッサンディの機械論哲学に触れていました。彼ら(キャヴェンディッシュ、ホッブズ、ペティ、ディグビー、マーガレット・キャヴェンディッシュ)はエピクロスの原子論をその古典的形式で奉じていたわけではないものの、とにかく機械論哲学への熱狂をイングランドへ持ち帰りました。これにくわえ、1649年にはガッサンディディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』10巻の翻訳・注釈が出版され、53年には原子論への高い評価を記したベーコンの著作がはじめて印刷にかけられました。

 しかしいぜんとしてエピクロスの哲学は無神論と放縦を連想させる疑わしい哲学でした。この疑念を晴らすようなイングランドにおけるガッサンディが必要でした。この役割を果たしのがウォルター・チャールトンです。初期にはファン・ヘルモントの医学哲学に傾倒していた彼は、1650–52年からエピクロスの哲学の擁護者となります。彼がエピクロスの哲学について論じたことでガッサンディの著作に見出されない要素はほぼありません。しかしとにかくにも彼の諸著作を通じてイングランドの人々は英語で(キリスト教と調和する形に整備された)エピクロス哲学の全容に触れることができるようになりました。エピクロス哲学へのアクセスは1660年にトマス・スタンレーが『哲学史』を発行し、そこでエピクロスを大々的に取り上げたことによりさらに容易になりました。

 しかしエピクロス哲学がイギリス思潮の中心となることはついにありませんでした。リチャード・バクスターやメリック・カソボンは近年復興してきたエピクロス哲学を危険思想として攻撃します。彼らの本当のターゲットは王立協会の科学者たちでした。新科学を支持することはエピクロスの原子論を擁護することであり、それは無神論につながるというのです。王立協会への批判は時に激烈なものとなり、トマス・バーローにいたっては新哲学というのはローマの陰謀により広まったものだと断言しました。教皇主義者が新科学を支持している。その証拠にデカルトガッサンディカトリックではないかというのです。このような批判をかわすためにロバート・ボイルをはじめとする王立協会の科学者たちは新科学をエピクロス哲学から切り離そうとします。ラルフ・カドワースは原子論はデモクリトス、レウキッポス、ピュタゴラスに遡るのではなく、フェニキア人モスクスによって創始されたもので、彼こそはモーセその人だと主張しました。

 こうして新たな物質論とのつながりを断ち切られたエピクロスはもはや哲学と科学の中心舞台に姿を現さないようになりました。