ルネサンスのエピクロス

The Epicurean Tradition

The Epicurean Tradition

  • Howard Jones, The Epicurean Tradition (London: Routledge, 1989), 142–65.

 1417年にポッジョ・ブラッキオリニがルクレティウスの『事物の本性について』の写本を発見したことは、エピクロス哲学復興のはじまりとしてしばしば語られます。しかし彼の発見と、それに続く写本の作成がエピクロス哲学への関心を呼び起こしたとみなせる証拠はありません。実際、人文主義者による最も大規模なエピクロス哲学の釈義であるヴァッラ『快楽について』(初版1431年)はルクレティウスへを参照せずに書かれています。ヴァッラはブルーニに体現されている倫理理論をストア主義的であるとみなし、これを攻撃するためにエピクロスの快楽主義を好意的に紹介しています。ただしこれはあくまで現代の倫理問題への応答のための出発点としてエピクロス哲学が導入されたのであって、エピクロス主義の復興をもくろんだものではなかったことに注意が必要です。ヴァッラ以外にもエピクロス哲学に関心をしめした者たちがおり、たとえばフランチェスコフィデルフォ、クリストフォロ・ランディーノ、レオナルド・ブルーニはエピクロス倫理学説が放縦な快楽主義という誤解にさらされていることを指摘しています。単に誤解を解くということを超えて、積極的にエピクロス倫理学説を擁護した人物としてはコズマ・ライモンディの名を挙げることができます。

 これらの人物の存在にもかかわらず、エピクロスを放縦な快楽主義の提唱者としたり、そのような快楽主義を奉じていると判断した人物をエピキュリアンとして批判するということは継続的に行われていました。イングランド(ど田舎)ではイタリア人とエピキュリアンを同一視する人物までいるしまつでした。ルクレティウスの詩の出版もイタリアでは低調でした。15,16世紀のイタリアでのエピクロスへの関心は限定的であったということができます。フランスででのルクレティウスへの関心はイタリアよりは高いものでした。しかしそこでもやはり『事物の本性について』は芸術作品としてのみ評価され、エピクロスの哲学を解説した作品として評価されていたわけではありません。ドレやラブレーのようにいかにもルクレティウスを好みそうで、実際ルクレティウスに触れる環境を生きた人物たちもまた、ルクレティウスに無関心でした。モンテーニュは例外的な頻度でルクレティウスの引用を行う人物でした。しかし彼とてやはり『事物の本性について』に書かれているエピクロスの学説に賛同していたわけではありません。

 ドイツではルターがエピクロスによる霊魂の不死性の否定と摂理の否定、および放縦な快楽主義を批判しました。とはいえ彼にとってはエピクロスの名前は、問題のある哲学学説の提唱者としてより、論敵にたいして投げつける罵倒として機能していました。教皇エピクロス、ルーヴァンの神学者たちは最も粗野なエピクロスの雄豚でした。放蕩な生活を送る現代の人々はエピクロス主義者です。「いまやもっとも有害な時代がやってきている。エピキュリアンたちが数を増やしている。これは万物が混乱し裁きの時が近いことのもっとも確かな証拠である」。一方、自由意志をめぐる論争でルターからエピクロス主義者と批判されたエラスムスは、有徳な生を生きるものこそが最上の喜びを得るのだから、真のキリスト教徒は真のエピクロス主義者となるのだと反論しました。