フーコー入門 ハッキング「ミシェル・フーコーの考古学」

知の歴史学

知の歴史学

 ミシェル・フーコーのとあるインタビュー集(1980年)への書評として1981年に『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』に掲載された作品です。フーコーのこの時点までの思想的遍歴が明快に整理されています。あまりに明快なのでまとめ直す必要もないほどですけど、自分の中での整理のためにいちおう。

 フーコーの探求の出発点は『狂気の歴史』の段階です。この時点でアナール派による長期持続への着目にしたがうことなく、むしろ歴史における断絶、それも2段階の断絶を発見し分析するというフーコーの手法の特徴があらわれています。このころの彼はまた、概念化される以前の純粋な狂気というものがあり、これがある時代から強制的に制度によって分類されたり排除されたりすることを告発するという姿勢をとっていました。

 このような概念化されえない狂気などはないという方向に進むきっかけとなったのは、ある言明が真とされたり偽とされたりする可能性の条件を探るなかで、そのような真理判断そのものを成立させている規則の集合、しばしば明確には意識されない深層にある規則の集合にいきあたったことです。フーコーがsavoirと呼ぶこの基層の探求を行うのが考古学のプロジェクトであり、これが徹底的に実践されたのが『言葉と物』でした。そこでは言葉を発する主体を考慮せずに、言明の集合としての言説を考察することで、真理判断が可能であるような問題領域がいかに歴史的に形成されてきたかが問われました。

 しかしこのような極端な言語への執着は長続きはせず、フーコーはやがてある言説を分析するに際して、それがどのような利害に奉仕しているのかを言語のそとに求めはじめます。そこで(セクシュアリティの研究を通じて)あらわれたのが権力でした。あらゆる言説なりその言説で判断される真偽は、何らかの権力を成立させるためにあり、この権力は逆にある言説が真偽判断の対象となることに依存しているというのです。ここで権力は上から下に向けて行使されるものとしてとらえられるのではありません。むしろ権力のネットワークを構成する諸要素がどう産出されているのかを総体として問わねばならず、そのような産出の仕組こそ権力とみなさねければなりません。ここでは純粋な概念化されない狂気というものはなく、それすら観念され種別化されている時点で権力の作用としてとらえられることになります。

 この権力があらゆる地点に侵食した網の目からどう抜け出ればいいのか、というフーコーにたいする極めてしばしば投げかけられる批判への考察を少し行って論考は締めくくられています。