ライプニッツからヴォルテールまでの動物霊魂論 金森『動物に魂はあるのか』#2

  • 金森修『動物に魂はあるのか 生命を見つめる哲学』中公新書、2012年、115–145ページ。

 ライプニッツからヴォルテールまでが扱われた第3章です。とりあげられる4人はみな、動物にも霊魂を認めるという点でデカルト流の動物機械論とは一線を画しています。ライプニッツによれば動物も霊魂を持っています。しかしそれは経験からくる単純な表象を獲得するのみで、その表象を反省的にとらえかえしたさらに高次の(人間が持つような)表象を持つことはありません。しかしだからといって動物霊魂が可滅的であるわけではありません。むしろライプニッツにとって生成・消滅というものはなく、誕生、成長、死亡といった過程は量の増減に過ぎないので、動物霊魂も実は不死であることになります。

 ブリエは『動物霊魂をめぐる哲学的試論』(1728年)のなかで動物も非物質的な、しかし肉体とともに滅びるような霊魂を備えていると論じています。動物が感覚を持つとなると、それは苦痛をも感じることになり、それゆえ人間に殺されていく動物の境遇は悲惨なものになるのではないかという危惧が生じます。これに対してブリエはいくつかの論拠を持って動物の悲惨さを和らげようとしました。動物にもたしかに苦痛はあるかもしれないけれど、総体としては存在しないより存在していたいと考えるはずだ。また動物は明日のことに思い悩んだりはしないので、苦痛が明日もあるかもと考えて怯えることはない分、人間より苦痛の度合いはましなはずだといった具合です。イエズス会のプジャン神父は1739年の本のなかで、動物も動物に独自の霊魂を持ち、自己保存に必要な限りで言語すら持っていると論じました。

 ヴォルテールデカルト流の動物機械論に反対して、動物にも霊魂を認めました。ここから彼はベールのように、もし動物が霊魂を持つなら、人間の霊魂が動物のそれと同じく可滅的となるか、動物の霊魂が人間のそれと同じく不滅となるかのどちらかであるというアポリアを導きます。彼個人としては少なくとも動物にも何らかの霊魂を認めるものの、その霊魂の内実は不明であるという立場をとりました。ヴォルテールには肉食を諌めるかのような寓話と、この世に生きるものはすべてお互いを食べあって生きており、この世は陰惨な戦場なのだという悲観的な世界観を提示する晩年の作品が残っています。