中世における異端の発生 小田内『異端者たちの中世ヨーロッパ』第1章

異端者たちのヨーロッパ (NHKブックス)

異端者たちのヨーロッパ (NHKブックス)

  • 小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』NHK出版、2010年、23–86ページ。

 中世の異端運動について、最新の歴史研究の成果を生かしながらその全体像を伝えようとする優れた書物です。甚野『中世の異端者たち』とならんでまず参照されるべき文献です。異端の発生を段階をおって論じた第1章をまとめます。

 初期教会ではhairesisという単語は信徒共同体の内部での分派活動を指していました。それが紀元後2世紀の教父ユスティノス以降、真なる信仰から逸脱した「異端」という意味で用いられるようになります。アウグスティヌスは異端とは頑固に、執拗に間違った教えに固執するものだと考えました。彼によれば、そのような者たちを正しい信仰にもう一度連れ戻すためには、世俗の支配者を通じた暴力の行使も許されます。この点でアウグスティヌスの理論は中世における異端迫害を先取りしています。

 紀元1000年前後に社会が秩序を取り戻し、農業生産量が向上し、都市が復興してくると、新たなキリスト教社会が封建制を基盤に整備されていきます。そのなかで神と人間社会との媒介を自認する教会に対し、聖霊の加護によって神と直接的に結びつきを得たとするカリスマ的な人びとが11世紀前半にあらわれます。彼らが最初期の異端者とみなされました。この背後には社会の再都市化にともなうリテラシーの向上があったと考えられます。もちろん民衆の多くはいぜんとしてラテン語を解することはありませんでした。しかしラテン語を解する人の範囲が広がり、そのなかでの特異な人びとが都市で説教を行うようになったことで、異端とされた教えが広まることができたのです。

 11世紀半ばから教会は改革運動を開始します(グレゴリウス改革と総称)。教会を世俗の権力から解放することで、霊的な領域を浄化し自律化しようという運動でした。これにより新たな異端のカテゴリーが登場します。それがシモニア的異端というもので、聖職売買(シモニア)やニコイティズム(聖職者妻帯)を支持する人びとが異端として断罪されました。

 このように教会を霊的に浄化することは、教皇を頂点とする中央集権的な教会組織をつくることを意味すると同時に、霊的とされた領域において、富と権力を支配・管理するという非常に世俗的に思える活動に教会が乗り出していくということも意味しました[関連記事にあるLeff論文も参照]。こうして権力として発現するようになった宗教体制への不服従を表明する人びとが現れます。教会はこのような人びとをローマ教会への不服従を理由として異端と断罪するようになりました。聖書や信条からの逸脱として規定されていた異端が、グレゴリウス改革による教皇首位権の拡張にともない、教会が敷く規律への不服従(これが信仰からの逸脱と同一視される)として再定位されることになったのです[オッカムが反発したのはこれ。下記の将基面論文参照]。こうして12世紀以降のポスト・グレゴリウス改革期に、不服従を唱える集団と、それを異端として迫害する教会との抗争が頻発することになります。