愛欲と哲学のあいだの人間 根占「ジョヴァンニ・ピーコの『演説』考」

  • 根占献一「ジョヴァンニ・ピーコの『演説』考 「英雄の恋」とその意義」『ルネサンス精神への旅 ジョアッキーノ・ダ・フィオーレからカッシーラーまで』創文社、2009年、124–144ページ。

 ピーコの『演説』は「人間の尊厳について」と呼ばれています。しかし実はこの表題は彼自身がつけたものではなく、1504年に『演説』が印刷されたときにはじめてつけられたものでした。この事情をかんがみれば、『演説』を近代的な人間讃歌とみなすことには注意が必要であるように思えます。じっさいに『演説』を読んでみても、出だしの部分こそ自由意志によって獣にもなれるし、神的なものへと生まれ変わることができる存在としての人間が称揚されて、感動的な筆致なあるわけですが、後半にいたるにつれて学問により神へと上昇する道筋が説かれるようになり、当初の読み込みが誤解ではないかという思いが強くなります。

 本論文は演説の冒頭部のしばしば近代的人間讃歌とみなされてきた箇所を、ピーコの個人的な体験と、その体験にもとづいて彼が獲得した見通しのうちに理解しようとする試みです。『演説』の執筆前にピーコはフィレンツェから婦人マルゲリータを誘拐するという事件を起こしています。戦闘による死傷者まで出したこの事件により、彼は投獄されたものの、ロレンツォ・デ・メディチの力によって釈放されます。事件そのものはここで一応の収束をみたものの、ピーコの苦悩は続きました。自分は愛欲に負けた意志薄弱な存在だ。悔恨のなかでピーコは愛欲から身を離し、内面に沈潜して静かに哲学研究を行うことこそが価値ある生き方であるとの思いを深めていくこととなります。

 『演説』には誘拐事件から会得された感覚が強く反映されていると解釈されます。人間は「獣のような劣性のものに堕落することもできよう」。ちょうどピーコが愛欲に負けて婦人を誘拐してしまったように。しかし人間には愛欲から離れて、哲学に身を捧げる生き方が残っている。道徳学、弁証法、自然哲学、そして神学を学ぶことにより、人間は自らの意志により獣のようなあり方から離れることができる。世俗の愛から離れ、神との和合をめざす愛を獲得することができる。それによって「魂の意向により、神的な優れたものに生まれ変わることもできよう」(137ページ)。

 自らの体験と、それに基づく学問観から、人間に下降か上昇かの選択を迫るところに、『演説』の冒頭部の意味は探られなければなりません。