科学者共同体を操作する プロクター『黄金のホロコースト』 Löwy, "A Truly Impure Science"

 『健康帝国ナチス』の著者として知られるプロクターの最新作『黄金のホロコースト』へのエッセイレビューを読みました。19世紀後半まで喫煙はそれほど広範には広まっていない慣習でした。これが20世紀中頃までには爆発的に普及します。原因としては技術的革新がありました。たとえばよりマイルドでよい香りのするタバコ製造技術の登場やマッチの発明です。同時に喫煙は巧みなマーケティングによっても拡散しました。戦時中は兵士たちに極度のストレスに耐えてもらい、彼らのあいだの士気を維持するためにタバコが配布されました。マーシャルプランには、アメリカ製のタバコを欧州に輸出する計画が記されていました。また1920年代以降は女性がタバコマーケティングの主要な標的となります。タバコを吸う女性は何よりも伝統的な慣習より解放された女性であると宣伝されたのです。

 1950年代よりタバコが健康被害をもたらすという知見が提示されはじめます。これにたいしてタバコ産業が反撃にでます。もっとも効果的に用いられたのが、科学者共同体をたくみに操作することでした。もしタバコ産業にとって好都合な結果が出れば、その研究成果は大々的に喧伝され、逆に不都合な結果は隠蔽されました。タバコの成分の詳細が開示されていなかったため、科学者たちは「ライト」で健康によいとされたタバコに実は有害な物質がいぜんとして含まれていることを見逃してしまいました。とくにタバコ産業は研究者がいちどに全称的な命題を肯定しようとしない点を利用して、タバコの有害性の有無をいぜんとして研究者間でも意見の分かれている問題として提示することを行いました。科学の研究からくる懐疑を巧みに操作することは現代でもしばしば行われています(温暖化)。またタバコ産業は科学者だけでなく、歴史家(とくに医学史家)を動員して、自らの主張への支持をとりつけようとしていました。

 現代の日本でも企業が「〜研究会」という名目で研究者を集め、好きなことを話し、懇談してもらったうえでそれなりの額の謝金を支払うということは行われています。そこではたいていの場合、話す内容の選定や問題へのスタンスに主催者側が介入することはありません。あくまで研究者の自由な創意が尊重されているポーズがとられています。しかしそのような翻って考えてみれば明らかに不自然な形での金銭の授受を長年にわたって繰り返して、研究者に後ろめたさなり恩義を感じる気持ちを植えつけることで、何か有事があったときに、主催者側の企業に都合がいいような発信をする、あるいは最低でも彼らの利益に対立する発言は控えることが期待されているのです。このような各種謎研究会(や高額の原稿執筆料が支払われる謎機関誌)の存在は人づてに散発的に聞くのみで、その実態が体系的に調査されているとは言いがたいように思います。ここにメスを入れることは歴史研究者にとっての大きな挑戦であるでしょう。

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健康帝国ナチス

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