デカルトの(空虚な?)実体論 Pasnau, Metaphysical Themes, 25.6

Metaphysical Themes 1274-1671

Metaphysical Themes 1274-1671

Robert Pasnau, Metaphysical Themes 1274–1671 (Oxford: Clarendon Press, 2011), 596–605.

 人間の精神と肉体はいかに一体の実態を構成するのか。この難問へのデカルトの対応を検証した節である。17世紀の論者のうちには、ピエール・ガッサンディやロバート・ボイルのように、人間精神はその肉体の形相であると認める者がいた。しかしそう認めることでなにが説明されるかを彼らは明らかにしていない。GerardとArnold BoateのPhilosophia naturalis reformataでは、実体形相と第一質料というアリストテレス主義の述語を全面的に拒絶しながら、精神と肉体はそれぞれ独立の実体でありながら、単一の事物を構成できると論じられている。しかし彼らはいかにして独立性を持つ複数の実体から単一の実体が構成されるのか議論できていない。反対にDavid Gorlaeusは、人間は単一の実体ではなく、肉体と精神という二つの実体の集合であると論じた。

 Gorlaeusの見解は大きな反響を呼ばなかったものの、同じ主張をデカルトの弟子であるレギウスがおこなったときにはスキャンダルとなった。なによりもデカルト本人がレギウスをきびしくとがめている。デカルトは著作のうちで人間の精神と肉体との関係は、船頭と船との関係とは異なると論じている。分離可能な船頭と船とは異なり、精神と肉体はひとつの実体を構成しているというわけだ。しかしなぜそんなことが言えるのか。デカルトがあたえた説明は次のようなものだ。すなわち肉体に加えられた感覚を精神が感じる仕方は、肉体のそとでおきた現象を精神が理解する仕方とは根本的にことなるがゆえに、肉体と精神は特殊な結びつきを有する。目の前で紙が裂かれる。私たちはそれがバラバラになったのを見る。自分の肉体が裂かれる。私たちは苦痛を感じる。この違いが、肉体と精神の一体性を保証する。もう一つのあまりにおもてに出てこない論証は、肉体と精神が生存に適したかたちで互いに適合しているがゆえに、それはひとつの実体とみなしうるというものだ。デカルトのうちにこのような目的論を認めることは奇妙かもしれない。たしかにデカルトは神が世界を創造したときに抱いていた目的を人間は決して知ることはできないと考えていた。しかしだからといって、彼が世界のうちに何らのデザイン性も認めていなかったわけではない。

 しかしそもそもデカルトにとって実体の統一性という問題の重要性はいちじるしく低下していた。スコラ学者にとって個々の種は、それ独自の実体形相を持っていて、これは神が創造したものだ。この実体形相があるからこそ、質料と結合することで単一の実体が生じる。ではこの単一性はいかに実現されるかが問題となる。デカルトの場合、確かに自然のうちに種はある。しかしそれはそこに一定の運動のパターンが認められるからに過ぎない。究極的には自然のどこにも粒子の集積に統一性を与える存在はない。だからそもそもデカルトにとって、事物の単なる集積と、単一の実体を区別することに理論的意味はない。だがそれゆえにこそデカルトは比較的簡単に肉体と精神が単一の実体を構成するということができた。肉体と精神のあいだには特殊な感覚のあり方があり、また生存に適した結びつきが存在する。よろしい、それならそれを単一の実体とみなせばよいのではないでしょうか。デカルトが精神と肉体の単一性の問題につき、あまり本腰を入れてかたらないならば、それは彼が実質的に実体観念を拒絶しながら、それを明確化することによるスキャンダルを避けようとして、いわば語らずに済ますという戦略をとったことの帰結ではないかと著者はするのであった。