人間学のうちにある神の見えざる手 フィリップソン『アダム・スミスとその時代』

アダム・スミスとその時代

アダム・スミスとその時代

 多くの人がアダム・スミスの名を聞いたことがあるだろう。それはしばしば神の見えざる手という言葉とセットとなっている。そんなとき、その名は常に結びついているのは経済学だ。『国富論』の著者アダム・スミス近代経済学の祖というわけである。

 この理解は多くの通俗的理解がそうであるように間違ってはいない。しかし多くの通俗的理解の常として事態の半分しかとらえていないようである。そこではスミスにはもうひとつの代表的著作として『道徳感情論』があったことが見落とされている。倫理と道徳の問題を扱ったこの著作は、『国富論』と無関係ではない。無関係でないどころか、両者は同じ一つのプロジェクトを構成していた。人間学である。人間の本性と、人間の歴史を研究することから、社会理論、倫理学(ここまでが『道徳感情論』)、経済理論(ここが『国富論』)、哲学・詩・修辞をめぐる理論、そして法と統治をめぐる理論を構築し、一つの体系を打ちたてるのがスミスの企図であった。このうち『国富論』以降に出版される予定であった各論をスミスはついに出版できなかった。

 だがそれでも彼の草稿から体系は復元可能ではないか?ここでスミスをめぐるもうひとつの問題があらわれてくる。完璧主義者のスミスは、不完全な状態で公表された議論は人々の誤解を招き、それゆえ真理へといたる発展を遅らせると考えていた。それゆえ彼は自らの手稿類や手紙を入念に破棄した。残されているのは400通ほどの手紙と、哲学的小論七本のみである。

 こうしてアダム・スミスはその思想の全貌を知ろうとする歴史家にとっても、その生涯を描きだそうとする伝記作家にとっても厄介な人物となった。この厄介さに正面から立ち向かったのが本書『アダム・スミスとその時代』である。スミス思想の復元を可能とするような伝記を書こうというのだ。そのために著者はまずスミスの目を逃れた数少ない史料として、その講義を書きとどめた学生によるノートを活用する。ここからついに出版されなかったスミスの修辞学理論と法学理論の内容をうかがうことができる。そこからは『道徳感情論』と『国富論』を人間論の一部として関連づける道がひらかれる。

 だがそれでも史料の欠落は致命的である。とくに前半生についてはほぼ何もわからない。そこで著者はスミス自体を論じるのではなく、スミスが生きた時代、彼が過ごした街、彼が学んだ大学、彼が講義をうけた教授たちについて語ることで、スミスが経験したであろう世界を描きだすようつとめている(実際第2章まではスミス本人はほぼ出てこない)。『アダム・スミスとその時代』というのは邦訳版の表題であるものの、まさに「時代」の描出に大きな紙幅が割かれているという点で適切なものだ。とりわけ体系を構築しようとするスミスの企図に応じる形で、道徳理論から政治史論、さらには法学理論にいたるまで、17世紀から18世紀にいたる思想の流れが手際よくまとめられているように感じた。その意味で本書を18世紀の知の世界への入り口を提供してくれる書として読むことも可能ではないかと思われる。もちろんスコットランド啓蒙という関心にはより直接的に答えてくれるだろう。

 その評価については専門家を判断をまたねばならないものの、アダム・スミスをその時代とともに理解させてくれる書物として広く読まれる価値のある一書である。