『驚くべき方法』と『ヴォエティウス宛書簡』 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 19–29.

 基本書を読み進める。ここで著者は、ユトレヒト紛争の第2段階として、スホーキウスの『驚くべき方法』とデカルトの『ヴォエティウス宛書簡』を検討している。

 ユトレヒトでの論争は、デカルトが『省察』の第2版を1642年の春に出版したことによって新たな段階に入った。デカルトは第2版に『ディネ師宛書簡』を収録した。彼はその後半部でヴォエティウスを激しく攻撃した。デカルトによれば、ヴォエティウスはデカルトの議論に反論できないから、彼の哲学を禁止する方向に動いたのだという。デカルトはまた、ユトレヒト大学がデカルト哲学を禁じた決定に関しても(それを起草したのはもっぱらヴォエティウスだと見なしつつ)批判した。決定では、デカルトの哲学は古代の哲学の軽視を招くとされており、この点でとりわけ神学にとって有害であるとされていた。しかしデカルトに言わせれば、彼の哲学はすべての理性的な存在者が認める原理に基づいている以上、一般的に言われている「古代哲学」よりもなお古いと見なせるのだった。

 ヴォエティウスは直ちに反撃した。彼の要請により大学は『経緯陳述』Narratio Historicaと題された文書を作成し、そこでレギウスへのヴォエティウスの対応を擁護した。またヴォエティウスは教え子であり、グローニンゲン大学の哲学教授を務めている、マルティン・スホーキウスにデカルトを攻撃する著作を執筆するように頼んだ。スホーキウスは1643年に『驚くべき方法』を出版した。そこでスホーキウスは、過去の学説も自らの感覚も信じないデカルトの方法は、狂人や熱狂主義者が取るものと同じだと批判した。またスホーキウスは、デカルトは「間接的な無神論者」だというヴォエティウスの従前の批判(これはヴォエティウスが1639年に行った「無神論について」という討論に見られる)も継承した。スホーキウスによれば、デカルトによる神の存在証明は堅固ではない。またデカルトの証明は、神の観念を私たちが有しているという前提から出発するものの、そもそも無神論者は自らが神の観念を有していないふりをしているものである。以上の2点からして、デカルトの証明は無神論者に対して無力である。

 デカルトは『驚くべき方法』の校正刷りをいち早く入手し、反論を1643年の4月、ないしは5月に『ヴォエティウス宛書簡』として出版した。デカルトはヴォエティウスを『驚くべき方法』の実質的な著者とみなした。デカルトの議論は主としてヴォエティウスという人物への攻撃になっている。たとえば彼は、ヴォエティウスとサミュエル・マレシウスの論争を取り上げて、論争好きなヴォエティウスは、同じく正統派に属するマレシウスにまで攻撃をするのだから、デカルトがターゲットになったとしても、デカルトに責めるべきところがあるわけではないと主張している。またデカルトは、ヴォエティウスのような説教師は、そのような立場を利用して、他人や世俗権力を批判するべきではないとも主張している(これは、実質的にはレモンストラント派の主張と同一ではあるものの、だからといってデカルトがレモンストラント派に与していたと見なすべきではない)。

レギウスの討論とヴォエティウスの反論 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 14–19.

 本書の第1章ではいわゆる「ユトレヒト紛争」が取り上げられる。まず著者は、ヘンリクス・レギウスの1641年に行った討論が、どのような論争を引き起こしたかを解説する。

 ヘンリクス・レギウスは、デカルトの『方法序説』と三試論を読み、デカルト哲学に基づく独自の自然学体系を構築していた。ユトレヒト大学に着任したレギウスは、同大学にいたヘンリクス・レネリの仲介で、デカルトとやり取りをするようになる。デカルトはレギウスが自分の考えを出版物のなかで表明することには反対したものの、それを討論で表明することには賛意を示した。レギウスは討論の許可を当時学長であったヴォエティウスに求めた。ヴォエティウスはレギウスに医学についての討論を開催することを許可した。

 レギウスはまず『医学討論』と題された討論を行った(後に『生理学あるいは健康の認識』というタイトルで出版された)。3つの討論(それぞれ1641年4月5日、5月5日、6月30日に提出された)からなるこの討論のなかで、レギウスは人間が感覚する性質(たとえば暖かさと冷たさ)はすべて眼には見えない部分の配置と運動から来るとしている。また、人間の霊魂は非物体的で不死であり、考えているものであるとしている。

 続いてレギウスは1641年11月24日から、De illustribus aliquot quaestionibus physiologicisと題された討論を開始する。この討論のうちの最後の第3番目の討論(1641年12月8日に行われた)は、大変な騒ぎを引き起こした。その討論でレギウスは、人間の身体と霊魂はそれぞれが単独で完全な実体なのだから、それらのあいだの結合は偶有的なもの(accidental)であると主張した。この主張は、死後には身体と霊魂の偶有的な結合は解消されて、身体は完全に消滅し、それゆえ身体を伴っての復活は起きないという結論に至る危険性があった。当時身体を伴っての復活はソッツィーニ派が否定し、レモンストラント派が受け入れをためらっていたこともあり、センシティブな論点であった。このような主張に、討論に参加していた数多くの神学部の学生たちは衝撃を受けた。また、このような討論がヴォエティウスを始めとする神学者たちに宛ててなされていたことも問題であった。さらにレギウスが、ヴォエティウスによる聞き取り調査のなかで、この主張をデイヴィッド・ゴルラエウスに帰したことも状況を悪化させた。ゴルラエウスは正統派のなかでは悪名高かったからである。

 ユトレヒト大学の神学部は、ヴォエティウスが1641年12月18日の討論に3つの系を付して、そこでデカルトの哲学を批判することを認めた。ヴォエティウスは、人間が偶有的に一つであること、コペルニクスの世界体系、そして反アリストテレスの哲学を批判した。レギウスの名は言及されていないものの、彼が批判の対象となっていたのは明らかであった。

 さらにヴォティウスは12月23日と24日にに別の討論を行い、それらの討論への付録のなかで、アリストテレスの形相概念を否定する立場への批判を行った。ヴォエティウスによれば、もし実体形相を否定すれば、それぞれの存在が実体であると主張できなくなる。また形相を否定すれば、世界から二次原因は消滅し、すべての出来事が一次原因としての神に直接引き起こされることになる。最後に、形相を否定すれば、事物に対して種や類を認めることが不可能になる。ヴォエティウスはさらに、コペルニクスの世界体系と聖書のあいだの矛盾を指摘している。ヴォエティウスによれば、新哲学の提唱者たちが証明することは証明されておらず、しかも互いに異なっている。それらは時の試練に耐えてきた伝統的な哲学にとって代わる資格はないという。

 レギウスはデカルトのアドバイスを受けてヴォエティウスの付録への『返答』を出版した(1642年2月16日)。そこでレギウスは、アリストテレスの実体形相の教えは、形相が質料から引き出されるとするのだから、実体形相としての霊魂は物体となってしまうと主張した。レギウスによればこのような学説こそが無神論の危険を帯びているのだった。レギウスの『返答』は即座に回収処分となり、1642年3月に市当局はレギウスを『返答』を出版したために非難し、彼が医学以外を教えることを禁止した。また、同月に大学の教授たちが出し、市当局の同意を得た判決のなかで、レギウスは同じ大学の同僚と論争してはならないという暗黙の了解に反したために批判された。そこでは新哲学も断罪された[ここの記述は、Verbeek, La querelle, 120–122の記述によって少し補った]。それは上級学部、とりわけ神学部で学ぶことになる学生に偏見を与えるからであるという。こうしてユトレヒト大学はデカルト哲学を講じることを最初に認めた大学であり、なおかつそれを禁じた最初の大学になった。

 

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デカルト受容の二つの背景:大学と政治 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 6–12.

 基本書のプロローグの後半を読む。ここで著者は、デカルト哲学を巡る論争の背景として、当時のオランダでの大学教育と、政治状況について論じている。

 1575年に設立されたライデン大学では当初アリストテレスの哲学は教えられていなかった。しかし宗教に関する理論的なアプローチの一切を拒絶する熱狂主義者への対抗や、教義を巡る論争の激化に対処するために、より厳密な理論体系の導入が図られた。それはアリストテレスの著作の再導入によって行われることになる。

 ギスベルトゥス・ヴォエティウスはアリストテレスの哲学を支持した。彼によれば神は理性と感覚を通じて神を知るように人間に命じており、これをまさにアリストテレスの哲学は行っている。このため、信仰とアリストテレスの哲学の対立も起こりえないとされた。

 アリストテレスの哲学を警戒する者もいた。フラネカーのヨハネス・マコヴィウスは、オランダの大学にスコラ学を導入しようとしているとして、同じくフラネカーのウィリアム・エイムズに批判された。同じく正統派のサミュエル・マレシウスは、ヴォエティウスの哲学をカトリックに類似した逸脱だとして批判した。

 アリストテレス主義のあり方は多様だった。フランコ・ブルヘスダイクは、アリストテレス哲学の経験主義的な側面を強調し、矛盾律のような最も一般的な原則も経験によって確証されなければならないとした。Anton Deusingは、世界の構成原理を『創世記』に依拠して質料、スピリトゥス、光であるとし、この理論をアリストテレス的なものと見なした。

 アリストテレスの哲学はデカルト主義者に受け入れられもした。アドリアン・ヘーレボールトは、デカルト主義にも好意的な折衷主義者であり、スコラ学にも大きく依拠していた。ヨハンネス・デ・レイは、アリストテレスデカルトの哲学のあいだに共通性を見出した。ヨハンネス・クラウベルクは、デカルトの哲学をスコラ哲学のやり方で提示した。

 アリストテレスの哲学は自然誌を推奨しているとも理解された。デ・レイはアリストテレスは自然誌に貢献したと評価した(と同時に、この点を徹底しなかったと批判もした)。スホーキウスは、アリストテレスの哲学を支持しながら、デカルトの哲学を感覚を軽視するとして批判した。彼は農民や技術者から情報を収集している。ダニエル・ヴォエティウスは、ガッサンディアリストテレスにともに依拠し、デカルトにも賛辞を送ってすらいる。ゲラルド・デ・フリースは、アリストテレスを擁護してデカルトを批判しながらも、アリストテレスへの隷属は否定し、折衷主義的な立場をとった。

 オランダの大学には、アリストテレスとは異なる選択肢も存在していた。それはラムスであったりスカリゲルであったりベーコンであったりした。

 デカルト主義には政治的な側面もあった。この点はオラニエ派とヤン・デ・ウィットの対立が生じた17世紀後半に顕著である。デカルト主義者のフランス・ビュルマンがユトレヒトの神学教授に任命された背景には、デ・ウィット派のリベラルな勢力がユトレヒトの政治を担っていたことがあった。1692年にヤコブ・コールマンは、デカルトの哲学がライデンとユトレヒトで成功を収めたのは、両市の政治権力の後押しがあったからだとしている。

 政治権力の教会への従属を求める正統派と対峙していた支配階層にとって、デカルト主義が魅力的であった可能性は十分にある。実際、この対立はデカルト主義を巡る論争のなかでしばしば言及された。たとえば、ユトレヒト紛争にあたってデカルトは、ヴォエティウスが国家の平穏を乱しているとし、教会の構成員は民衆を教化することに専念すべきだとした。対してスホーキウスは、デカルトが貴族層と交際している点を攻撃している。

 正統派からの圧力があるにもかかわらずデカルト主義者が教授に任命されていたことは確かである。ライデン大学は、デカルトの名前に言及することを禁じた1647年の命令を確認した次の日に、デ・レイを教授に任命した。ユトレヒト大学はデカルト哲学を最初に禁止した大学でありながら、それ以後もレギウスがデカルト哲学を教えることを放置した。ヨハンネス・デ・ブリュインは、1652年にユトレヒトで教授となり、デカルト哲学を講じた。

 しかしだからといって、上位市民層のイデオロギーデカルトの哲学のあいだになにか密接な関係があったとはいえない。たしかにデカルト主義者たちによる神学と哲学を切り離すべきだという主張は、上位市民層の政策と合致していた。しかし、たとえばデ・ウィットはデカルトの数学的な著作には関心をいだいていたものの、ライデン大学で起きていたデカルト哲学をめぐる論争で、どちらかに肩入れしていた様子はない。彼はまた1656年のデカルト主義を断罪して決定を支持していた。

 以上のような宗教的、大学教育的、政治的な背景のなかで、デカルト哲学はオランダで受容されていくことになる。その際には、デカルトの哲学は、オランダの大学の状況に適合する形で改変された。同じようにデカルトの哲学への敵対者たちも、デカルト哲学の挑戦を受けて、伝統的な哲学と正統派の基準に合致するような応答をするように努めていた。

デカルト哲学を巡る論争の神学的背景 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 1–6.

 デカルト哲学がどのようにオランダで受容されたかを調べた基本書のプロローグの前半部分を読む。ここで著者は、デカルト哲学を巡る論争が、それ以前からなされていた神学論争と重ね合わされて理解されていたことを主張している。

 改革派の神学に従うなら、救いは善き行いによってもたらされるわけではない。救いは信仰によってのみもたらされる。では、神は信仰を持つ者(神が救う者)をどうやって選ぶのか。ここで神が自由であり、それゆえ自分以外から影響を受けないことを考えるなら、神が救う者を選ぶとき、神は恣意的に選ぶことになるのではないかという懸念が生じる。この恣意性は神の善性と正義と両立するのだろうか。

 この問題は17世紀前半のオランダでは大変重要なものであった。ヤコブアルミニウスはこの問題に対して、信仰は神から押し付けられるものでなく、各人の判断で受け入れることも拒絶することもできるものだとした。またアルミニウスは、選びと救いのために、各人ができることは何もないという教義は、神の知恵、善性、正義に反しているとした。アルミニウスの論敵は、正統派神学者のフランシスクス・ゴマルスであった。

 この問題はコンラッド・フォルスティウスを巡る論争でさらに拡大した。ホラント州は1610年にレモンストラント派(アルミニウス派)のフォルスティウスをライデン大学の神学教授に任命した。これに対して正統派の神学者たちは直ちに抗議をはじめ、南ホラントの教会会議はフォルスティウスの任命撤回を求めることになる。この動きに英国のジェームズ一世も同調する。オランダの孤立することを避けるためには、宗教上の問題を各州の管轄事項ではなく、連邦議会の管轄事項にせねばならなかった。これはレモンストラント派には大きな打撃だった。彼らはホラント州では多数派であっても、7つの州全体では少数派だったからである。

 フォルスティウスをめぐる論争は、聖書解釈を巡る問題へと論点を拡大させた。レモンストラント派によれば、聖書の解釈は人間が行うため、聖書解釈によって導かれた信条はすべて暫定的なものである。聖書そのものだけが教会の信仰の基礎となりうる。これに対して正統派は、聖書を信仰の究極の基礎として認めつつも、そこから解釈によって導かれた信条が暫定的なものだとは考えなかった。そのように考えてしまうと、懐疑主義無神論への道が開かれてしまう。聖書の解釈とは、論理と一般的に認められていることにしたがって、聖書で言われていることや示唆されていることを明確にすることである。この問題は、宗教改革の核心にある問題であった。改革者たちはカトリック教会の伝統や教皇の権威が信条を決定することを否定した。しかし同時に、各人の聖書解釈以外に何らの権威を認めようとしない再洗礼派やその他の熱狂主義者たちが秩序を破壊することも懸念していた。聖書のみを信仰の基準としながら、秩序を保つにはどうしたらいいのか。

 1625年に正統派を支持していたマウリッツが亡くなり、フレデリック・ヘンリドリックが州総督になると、レモンストラント派が復帰してくる。1622年にはシモン・エピスコピウスが『告白』を出版する。エピスコピウスは、聖書は「正しい理性」によって解釈されるべきだ主張し、また神は決して人間の自由を廃棄してはいないとした。『告白』はライデンの神学部によって禁書とされ、エピスコピウスは対抗して『弁明』を出版することになる。『告白』と『弁明』は激しい攻撃にさらされた。1631年にニコラウス・フェデリウスは『アルミニウス主義の秘密』を出版する。ギスベルトゥス・ヴォエティウスは、スホーキウスと協力して1635年に『テルシーテース』を出版した。また、1650年にはライデンの神学者ヤコブス・トリグラディウスがレモンストラント派のヨハネス・ウィテンボーゲールトの批判書を出版した。

 以上のようなアルミニウス主義を巡る論争は、デカルト主義を巡る論争と深く関係している。正統派の神学者たちは、デカルト主義はアルミニウス主義と同じように、オランダ内での意見の一致を脅かすものだとみなした。ヤコブス・レヴィウスは「アルミニウス主義は去ったが、その代わりにデカルト主義が来た。これはさらに悪いものである」(p. 5)と述べた。また、レモンストラント主義を巡る論争点の多くが、デカルト主義を巡る論争において再び取り上げられた。フェデリウスは著作の中でレモンストラント派の誤ちを列挙している。それは懐疑、懐疑主義無神論、理性と進行の関係、聖書の理性主義的解釈、根本的な信条と派生的な信条の区別、神の一性と単純性、意志の自由、身体と霊魂の関係についてである。これらの論点はデカルト主義を巡る論争でも取り上げられることになる。同じように、ヴォエティウスの『テルシーテース』で論じられた論点が再び、スホーキウスのデカルト批判書(『驚くべき方法』)で取り上げられることになった。

 また、レモンストラント派は、デカルトがレヴィウスとヴォエティウスと対立するのを見て、デカルトに好意的に言及するようになる。たとえば、レモンストラント派のバテリエは、デカルトのヴォエティウス評に言及する。また同じくレモンストラント派のエティエンヌ・ド・クルセルはデカルトの『方法序説』のラテン語訳を作成した。

 もちろん、レモンストラント派とデカルト主義のあいだに論理的なつながりがあるわけではない。ほとんどのデカルト主義者たちはレモンストラント派ではなく正統派であったし、レモンストラント派は神の観念の生得性を認めない点で、デカルトとは異なっていた。しかし、デカルトの人間の自由に関する解釈はしばしばペラギウス主義とされ、このペラギウス主義を媒介にして、レモンストラント派と関連付けられていた。さらにデカルト主義者たちが後にコペルニクス主義を支持したことは、彼らが聖書を合理主義的に解釈しているという批判を招いた。このようにデカルトと正統派の対立は、当時の宗教対立の枠組みのなかで解釈されたのである。

ユダヤ人再入国問題と自然法 Lee, "The Readmission of the Jews"

 本論文は、1650年代なかばに問題となったユダヤ人再入国問題に対して、Thomas Barlowが提出した主張を、自然法の問題との関係から理解しようとするものである。史料としては、Barlowの死後1692年に出された論考が用いられる(この論考は、1656年以降に執筆されたと推測される)。

 中世に追放されたユダヤ人の再入国を認めるかどうかという問題は、1655年から争点となる。しかし、世俗的な権力が宗教上の問題にどこまで介入できるかということは、すでに1640年代から争点となっていた。一方では、正しい宗教上の教えというのは、人間の心に生まれもって刻み込まれているものなのだから、間違った宗教上の教えとは自然法に反するものであり、それゆえ世俗的な権力が禁じることができるという立場があった(Henry Ireton)。他方では、人間の心に生まれもって刻まれている宗教上の事柄は神が存在するということに限られるとし、それ以外の点につき世俗権力の介入を認めることは、世俗権力の恣意的な介入を招き、良心の自由を抑圧することになるという立場があった。

 この対立の構図の中で、ユダヤ人の再入国問題も議論されることになる。再入国に反対するWilliam Prynneは、ユダヤ人たちは高利貸しという冒涜的な行為を行っているため、世俗権力は彼らを追放する義務を負うとした。ここでPrynneは、明言こそしていないものの、高利貸しは自然法に反する行為であり、それゆえ世俗的な権力の取り締まりの対象となるという議論を展開している。

 これに対して、Thomas CollierやJohn Duryはユダヤ人の再入国を認めるべきだと主張した。彼らは、世俗権力は宗教上の学説の違いを根拠にある集団を追放することはできないと主張した。しかし彼らは同時に、ユダヤ人たちが高利貸しを行ったり、神を冒涜する行為を行ったりする可能性がある点で「罪深い」集団であると認めていた。彼らはこのような行為はユダヤ人の入国を認めた上で法で取り締まるべきだと主張したものの、そもそもユダヤ人が「罪深い」集団であると認めてしまえば、だからこそ世俗権力は最初からユダヤ人を追放しておくべきだという主張に根拠を与えかねなかった。

 Thomas Barlowは、ユダヤ人の再入国問題を自然法の問題と結びつけながら次のように論じた。まず彼は教会の霊的な権力と、世俗の権力を分ける。その上で、教会な霊的な権力はキリスト教共同体にしか及ばないため、キリスト教徒ではないユダヤ人の処遇は、世俗権力が自由に決定できる。続いて、Barlowはユダヤ人の行う高利貸しや一夫多妻制や姉妹との結婚は自然法に反しているという主張に反論する。自然法は不変であるため、旧約聖書のなかで一度でも認められていることは自然法に反しないと考えるべきである。そうすると金貸しも一夫多妻制も姉妹との結婚も旧約聖書で認められているため、自然法に反するとは言えない。よって自然法違反を根拠に、ユダヤ人を追放する義務を世俗権力に課すことはできない。このように自然法旧約聖書の関係を理解することは、多くの知識人が認めていることだとBarlowはいう。また、Barlowはこの理解の点で自分がGrotiusに多くを負っていることを、1650年代に著した草稿のなかで明らかにしている。以上の議論からBarlowは、ユダヤ人の再入国は世俗の権力が自由に決定できる問題であると結論づけた。

 Barlowの議論は、ユダヤ人再入国問題を当時の政治的、法的な枠組みのなかで理解する必要があることを教えている。

 この論考で押さえておくべきは、William Prynneは自然法という用語は用いていないということである。ではなぜPrynneが実質的にユダヤ人の自然法違反を論じていると言えるのか。根拠は次のようなものである。

Blasphemy, whatever it might entail, had been regarded as clear violation of natural law at least since Ireton expressed his view of the civil magistrate’s power in the late 1640s. Prynne also revived the old stigma of usury in the English perception of the Jews in A Short Demurrer and its sequel, The Second Part of A Short Demurrer (1656), which reinforced the notion that the Jews were inclined to breach natural law. Usury was another sin that many Christians believed to be fundamentally immoral and against natural law for centuries. (p. 583)

 第一に、Blasphemyが自然法の違反となるということは、Thomas Iretonが1640年代に世俗権力についての見解を明らかにして以来認められていたという。第二に、高利貸しが自然法に反する罪だということは広く認められており、Prynneが高利貸しの罪をユダヤ人に帰していたから、というものである。以上2点を根拠に、Prynneが自然法という用語を用いていなくても、実質的に自然法違反を論じていたと言えるかどうかが問題となるだろう。

 もう一つこの論考で気になるのは、Thomas BarlowとGrotiusの関係である。この点で重要なのは次の文である。

Yet these particular views of natural law and the Old Testament were most powerfully and influentially presented in Grotius’ De Jure Belli ac Pacis (1625), and Barlow acknowledged his intellectual debt to Grotius regarding these ideas more explicitly in his manuscripts composed in the early 1650s. (p. 591)

 自然法旧約聖書の関係に関する理解の点でBarlowはGrotiusに多くを負っており、この点についてBarlowは1650年代前半の草稿のなかで明らかにしているとある。Grotiusへの依拠はBarlowの立論の再構成にあたって本稿が特に強調している点であるため、この草稿でBarlowがGrotiusへの依拠を明らかにした箇所は、立論の重要な典拠として引用されるのが望ましい。それがすぐにはアクセスできない草稿でなされているのだからなおさらである。

 

スピノザと無割礼の記憶 Israel, Spinoza

 

 第5章 "Childfood and Family Tradition" では、スピノザにより近い祖先たちの人生が語られる。なかでも興味深いのは、スピノザの曽祖父 Duarte Fernandes の話である。彼はスペイン、オランダ、モロッコという三つの国家と巧みに交渉しながら、貿易ネットワークを拡張していった。

 スピノザに関するイスラエルの主張として押さえておかなければならないのは、Duarteの義理の息子(スピノザの祖父)である Henrique Graces である。彼は  Baruch とも呼ばれており、スピノザの名は彼から取られている。Henrique は1619年3月13日にアムステルダムの墓地に埋葬された。記録によると彼は最後まで無割礼であった。このため彼の死後割礼が施された。その後、無割礼で亡くなった者が埋葬される墓地のはずれの場所に埋葬された。無割礼であるというのは、当時のアムステルダムユダヤ人共同体では非難に値することであり、実際割礼者とは別の場所に埋葬されていたのである。

 Henrique の妻の Miriam は、夫の隣に埋葬されることを望み、1640年にはその許可を得た。しかし、彼女が1647年に亡くなった時、彼女は夫とは離れた場所に埋葬された。これはおそらく彼女の息子の Michael、つまりスピノザの父の意向である。彼が Miriamの望みを無視したのか、あるいは最後に Miriam を説得して夫から離れた場所に埋葬することを認めさせたのかは分からない。

 イスラエルはこの経緯が、スピノザの『神学・政治論』におけるユダヤ人の儀礼遵守と割礼に対する批判的な見解をもたらしたのだという。スピノザは『神学・政治論』第3章でパウロの次の言葉を肯定的に引いている。

もし割礼を受けた人が律法に反するなら、受けた割礼は包皮[=無割礼]となるでしょう。反対に、もし包皮を残した[=無割礼の]人が律法の指図を守るなら、その人の包皮は割礼と見なされるでしょう*1

 また同章の終わり近くでは、次のように述べている。

だから今日のユダヤ人は、自分たちが他のあらゆる民族以上にそれに恵まれていると言えるようなものを何一つ持っていない。それなのに彼らが長い年月にわたり、国を持つことなく散らばった状態でも存続してこられたのは、奇跡でもなんでもない。彼らは既に、万人の憎しみを引きよせてしまうほどに、他のあらゆる民族と隔たってしまっていたのである。それは多民族のものと全く合わない外的な儀礼のせいだけでなく、きわめて熱心に守られている割礼のしるしのせいなのである*2

この点では、割礼のしるしの効力も大きいと思われる。これ一つだけでもこの民族を永遠にわたって存続させられるだろうと確信できるほどである。それどころか、彼らの心が普遍宗教的な諸原理によって和らげられるならともかく、そうでない限り、私はこう信じて疑わない。変わりやすい人の世の出来事の中で、いつかその機会が与えられるなら、彼らは自分たちの国を再び打ち立てるし、神は彼らを改めて「選ぶ」だろう*3

 イスラエルは、これらの文章に現れているスピノザユダヤ教儀礼と割礼の実践に対する批判的な姿勢を、彼の祖父と祖母の記憶に由来するものとする。

 

*1:スピノザ『神学・政治論』第3章、吉田量彦訳、光文社古典新訳文庫、上巻、175ページ

*2:スピノザ『神学・政治論』第3章、吉田量彦訳、上巻、183ページ

*3:スピノザ『神学・政治論』第3章、吉田量彦訳、上巻、184ページ

スピノザにおけるユダヤ人迫害の記憶 Israel, Spinoza, Life and Legacy

 

 

 第4章 "A Secret Legacy from Portugal" では、スピノザの祖先の歴史が、16世紀のイベリア半島の歴史とそこでのユダヤ人の状況と関係させられながら語られている。スピノザの母方の祖先(彼のバルーフという名は、母方の祖父から取られている)は、ポルトガルポルトという街からネーデルランドにやってきていた。父方の祖先もまた、ポルトガルのヴィディゲイラという街からネーデルラントにやってきていた。双方ともにポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れる形での移住であった。私がまったく知らないことが多く書かれてあり、大いに勉強になった。たとえば、スピノザの(かなり離れているとはいえ)祖先に、Enrique Henríquezという人物がおり、この人物がイエズス会士としてコルドバサラマンカで教授職を務めながらも、元ユダヤ人でありしかも世俗権力に対する教皇権力の優越を十分に認めていないということから最終的にその書を燃やされることになったという話(90–92ページ)は興味深く読んだ。

 スピノザに関わるイスラエルの主張としては、まずスピノザの反王政と反カトリックの姿勢は、単に同時代のネーデルランドの政治状況だけからではなく、彼の家族が長年に渡りスペインの、とりわけフェリペ二世による支配に抵抗してきたという歴史からも来ているというものがある。スピノザがスペインによる支配を意識していた証拠としてイスラエルが挙げる(あるいは挙げているように解釈できる)のが、彼による『国家論』でのアントニオ・ペレスへの言及である。彼は次のように書いている。

実に(アントニオ・ペレスが適切にも言ったように)、絶対統治(imperium absolutum)を行うことは君主にとってはきわめて危険、臣民にとってはきわめて呪わしく、神および人間の掟に反するものである*1

 ペレスはフェリペ二世に仕え、より融和的な政策を実現しようとしたが失脚し、フェイペの絶対統治を批判する書を著した。彼の書をスピノザは所持していた。

 イスラエルが挙げるもう一つの根拠は、スピノザがJoão Pinto Delgadoという改宗ユダヤ人にして、最終的には 

 もう一つの主張は、フェリペ二世に対する抵抗の歴史から、スピノザが暴力的な反乱を評価しないことを学んだというものである。スピノザは『神学・政治論』で次のように述べている。

さて、オランダ連邦に目を向けてみよう。よく知られているように、この国は王というものを持ったことがなく、[過去の統治者としては]伯爵がいただけであり、この伯爵に支配権が委ねられたことは決してなかった。当のオランダ連邦自身、レスター伯爵の時代に述べられた声明文の中ではっきりこう言っている。それによると、連邦は伯爵の職務に対して警告を挟む権威をいつも保持しているという。さらに連邦は、この権威および市民たちの自由を[もし伯爵に取り上げられそうになったら]守ることができるし、もし伯爵たちが独裁者に身を落としたら離反することができるし、伯爵たちが連邦の容認や賛成なしに何かを行わないよう縛っておくことができる。そういう権力を連邦は持っているというのである。こうしたことから分かるように、[オランダでは]至高の主権はいつも連邦の側にあった。最後の伯爵だけがこの権利を横取りしようとしたのである。したがって、連邦がこの男に背いたと見るのは大間違いで、連邦はもうほとんど取り上げられそうになっていた、自らの元々の支配権を取り戻しただけなのだ*2

 イスラエルによると、ここでスピノザは暴力的な放棄を評価しない立場から、オランダでのフェリペ二世への抵抗は、彼から無理やり支配権を奪ったものではなく、むしろ元々持っていた支配権を保持しただけなのだと主張している*3

 このようなスピノザの暴力的な蜂起を評価しない姿勢は、フェリペ二世に対するポルトガルでの暴力を伴う抵抗が失敗に終わった歴史を踏まえているとイスラエルは言う。

 

メモ

 "Spinoza prizes Pérez too for demonstrating the uselessness of unplanned, spontaneous popular uprisings based on popular resentement and anger (p. 107)." この主張の典拠はどこにあるのだろうか。

*1:スピノザ『国家論』第7章14節、98ページ

*2:スピノザ『神学・政治論』第18章、吉田量彦訳、下巻、光文社古典新訳文庫、2014年、265–266ページ(段落訳は削除)。

*3:ただここでスピノザが主張しているのは、「[すでにいる]君主を取り除くのも、[今までいなかった君主を立てるのに]負けず劣らず危険だということである」(スピノザ『神学・政治論』第18章、吉田訳、 下巻、262ページ)という彼の主張を踏まえて、オランダの例は「[すでにいる]君主を取り除く」事例には当たらないということである。スピノザが問題にしていることは、イスラエルがいう暴力的な抵抗か非暴力的な抵抗かという論点とはずれているように思える