『名婦の書簡』第17番書簡、ヘレネー→パリス

 久しぶりにラテン語の詩を訳しはじめました。
 今回訳しているのは、オウィディウス(前43-後17)というローマの詩人の手になる、『名婦の書簡』という作品の一部です。
 この作品は、タイトルからも分かるように、主に女性たちの手紙から成り立っています。神話上の有名な女性たちが恋人や思いを寄せる人に宛てた手紙を、オウィディウスが想像を膨らませて作りあげています。
 ここで訳しはじめたのは、その中の「ヘレネー」という女性が「パリス」という男性に宛てた手紙です。
 パリスというのはトロイアの王子様で、ヘレネーというのはスパルタ王の妃です。このパリスがヘレネーを誘惑して、トロイアに勝手につれて帰ってしまったことが、有名なギリシアトロイアの間の戦争の発端となります。この戦争は『イリアス』という叙事詩の題材となっています。
 そんなヘレネーがパリスにあてた書簡です。実はこの手紙の直前に、パリスがヘレネーに宛てた手紙が置かれていて、以下はそれをうけての手紙となっています。

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今や、あなたの手紙が私の目を汚してしまいました。だから、あなたに返信しないことが、私の名誉になるとも思いません。

あなたは異国のトロイア人でありながら、賓客の神聖な掟を破って、あろうことか、法で認められた人妻である私の誓約をそそのかしたのです。

たしかにそれは、風がふきあれる海を越えてやってきたあなたを、スパルタの岸がその港に迎え入れたから。違う氏族のもとからやって来たあなたにも、私たちの王宮が門を閉ざさなかったからです。これほどの好意に対して、不当な報いをもたらすべく入ってきたあなたは、果たして賓客だったのでしょうか。それとも敵だったのでしょうか。

こんな私の嘆きは正当なものです。でも私は知っています。あなたの手にかかればこんな私の嘆きも野暮なものになってしまう。私は田舎娘にもなりましょう。もし、私が恥じらいの心を持ち続け、その人生に汚点がないならです。

たとえ私が悲しげな表情を無理して作らずとも、眉をしかめて恐ろしげに座っていなくとも、私の名声はすばらしいものです。これまでなにもやましいことをせずに生きてきました。どんな浮気な男であっても、私をものにしたと称賛されたものはありません。

だからいっそう不思議なのです。あなたは自分のやろうとしたことにどんな自信を持っていたのでしょう。どうして私と寝るなどという希望を持つにいたったのでしょう。

ポセイドンの息子である英雄テーセウスが、私に暴力を加えたことがありました。そんな風に一度奪われたことのある私は、また奪われるにふさわしい女だと思ったのでしょうか。

もし私がテーセウスにメロメロになってしまったならば、非難されるべきは私でしょう。けれども奪われたとき、「いやだ」と言う以外の何を私がしたでしょう。

だけどテーセウスは、自分の行った行為から、求めていた収穫を得ることはありませんでした。恐怖を感じただけで、それ以外は何もされないで私は帰ってきたのです。恥知らずな彼は、暴れる私に、数回キスをしただけでした。それ以上は、私から何も手に入れることはありませんでした。

あなたのようなふしだらな人ならば、キスだけで満足することはなかったでしょう。神さまはよくしてくれました。テーセウスはあなたとは違う人だったのです。彼は手をつけることなく私を返してくれました。彼の抑制が、彼の過ちを減じたのです。若かった彼が自分のしたことを後悔していたことは明らかです。

けれども、テーセウスが後悔したのは、パリスが自分の後に続くことで、私の名前が人の噂の種となり続けるからだったのでしょうか。(1-34)